2015年07月02日

一勝地第二小学校の歴史(その1)

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久しぶりの更新となってしまいました。
さんがうらでは、田植えも終わり、夏休みの忙しい時期に向けて、着々と準備を進めています。

さて、本日はこの「さんがうら」の前身である「一勝地第二小学校」について少しお話ししたいと思います。
歴史が長く、一度の投稿では到底終わりませんので、小分けにしてお話ししたいと思っています。

この学校は、明治8年開校以来、平成22年3月にその歴史を閉じるまで、135年の長きにわたり、たくさんの人材を育み、世に送り出してきました。幾度の校名改称を経ていくわけですが、それはまた後日お話ししましょう。今日は、さんがうらに飾ってある、この2つの写真をご紹介します

左の写真は、国営の製材所の写真。
日露戦争で国家予算の8倍(7倍とも10倍ともいわれる)もの金額を投入して勝利を収めた日本ですが、その後財政難に陥ります。そのため国は、この地の樹齢200年を超えるモミやツガの木に着目。資金調達の政策の一環のために製材所を建設し、木々を売却して資金に充てました。その後、赤字解消に伴い民間払下げになるわけですが、この学校が移転し、この場所に建つまで存在していました。

右の写真は、昭和8年に現在の場所に建てられた校舎と航空写真。現校舎の一つ前のものです。当然、木造校舎ですね。
中央を流れるのは、那良川。この地域を潤す恵みの川です。右手が下流。左手が上流。
右岸にあるのが、松谷地区と、日本の棚田百選「松谷棚田」  左岸が、一勝地梨で有名な毎床地区と毎床棚田。
高低差100メートルの谷を挟んで大小さまざまな棚田が織りなす圧巻の田園風景です。

製材所が建つまでは、この地に暮らす人々は、晴耕雨読の日々を過ごすのどかな生活だったといいます。
ところが、国営製材所が出来てからは近代化の時代を迎え、たくさんの労働者が移住し、一気に賑やかになったと聞きます。
当時のこの学校の子供の数は250人以上だったとのこと。
閉校時の実に10倍近くの子供たちがこの学校に通っていたことになりますね。

時は流れ、この校舎も建て替えられて、現在の校舎となりました。
そして当時の賑やかさはなくなり、この地にも過疎化の波が押し寄せてくることになります。

さて、長くなるので本日はここまで。
次回このコーナーをする時は、初代校長先生「房崎内蔵太(ふさざき くらた)先生」の話をしたいと思います。
それでは本日も良き日を!!

posted by さんがうら at 14:15| Comment(0) | 歴史